消費者としてのオタク

鬱になるほど勉強がはかどらないんで駄文でも。orz


以前からなんとなく思っていたのですが、最近は「オタク」になるために、「知識」という要素があまり重要ではなくなってきていますよね? 昔はオタクを名乗るためには、それなりの知識と語りが必要だったものが、最近ではとりあえず、萌えるアニメでも見て、アニメイトあたりでグッズでも買えばもう立派なオタクです。このギャップはどうして生じたのか、適当に想像してみました。


まず最初に、ごく簡単にオタクの歴史を主に男性視点で振り返ってみると、ヤマトが放送されたのが74年。ここら辺のファンが第一オタク世代を形成します。第一回コミケも75年。ガンダムが79年で、「おたく」という言葉が誕生したのが83年。当時は知識云々という多少でもいいイメージは無く、完全な蔑称として誕生しました。(多少ともいい意味を付け加えられたのは岡田氏の功績か)


その後、第一世代のオタクが作品を創り出すようになると、多少オタク向けとなった作品が出始めるようになります。この頃のファンが第二世代でしょうか(合ってるかな??)


そして、セーラームーンからエヴァへと流れる萌えの発見によって、現在の主流である第三世代が誕生します。これは、一説にはセーラームーンがなぜブームになったのかを分析した庵野氏が、作品中において萌えを増大させていくという図式を発見し、それを実践したのがエヴァであるといわれています。エヴァの成功により、ストーリーが破綻、もしくは完結しなくても、世界設定とキャラ、つまりは萌えで商業的成功を得ることができると証明されました。


(ただ、95年は天地無用、ガンダムWスレイヤーズ、エルハザードなどの作品が一気にTVアニメ化された年なので、期が熟していたともいえるかも。OVAも含めて遡ると、源流は天地2期か女神様あたりか。それでも、庵野氏の、世界設定とキャラによる商業的成功の意味は大きいと思う。)


次に、世界設定とキャラを上手に使って成功した?例はセンチメンタルグラフティかなと思います。いやホント、設定と萌えだけだったしw これもそれなりの商業的成功を収めたと思います。


これを時期を同じくして、葉鍵系のゲームが一気に泣きゲーブームを作ります。この時期一番消費されていたのは何かと考えると、やはり設定とキャラではないでしょうか。ゲームをするというのはあくまでも出発点であり、ユーザーが本当に楽しんだのは二次創作であったと思います。これは直接はメーカーの利益にはなりませんが、同人市場のボリュームアップと、エロゲというジャンルの固定ファンを作るという意味で貢献したと思います。


その後、メディアワークスの一大企画、シスタープリンセスが世に送り出されます。このシスプリの優れていた点は、その設定の奇抜さと、徹底的なストーリーの排除だと思います。


まずは設定に関して。第一に、設定の奇抜さにより、本気ではまるファン、ネタで本気ではまるファン、そのネタを見て楽しむファン、などのファンを多層構造化し、いろいろなアプローチでの楽しみ方を提供することに成功しました。第二に、その設定そのもののネタ性により、シスプリに触れること自体がネタであり、レジャーであることに成功しました。例えば、シスプリにおいては、ポスターを買ったり、キャラコレ本を買うこと、それ自体をネタとして楽しむことができました。


次に徹底的な物語の排除について。シスプリでは、アニメにおいても、ゲームにおいても物語をなくす(つまり、アニメ後もゲーム後も、シスプリ世界に変化をもたらさないという意味で)ことにより、ユーザーに設定を自由に使う自由を与えました。これにより、ユーザーに与えられたものはシスタープリンセスという「環境」であると考えられないでしょうか?つまりユーザーは、世界とキャラの設定という自由な環境を与えられ、その中で好きに遊んでいいよというわけです。遊び方の例は公式モノが提示し、後はご自由にというわけです。


この、シスプリという「環境」が奇抜でおもしろいものであったため、ユーザーは長きに渡り、自由に遊ぶことができたんではないかなと思っています。


そして、ここでなされた最も重要なことは「物語の放棄」ではないでしょうか。ここにきて、もはや物語は必要不可欠なものではなくなってしまいました。


この頃と同じくして、ブロッコリーによる萌え要素の分割と再構成の発明という事件がありますが、直接関係ある話ではないので詳しい話は割愛します。が、これがキャラクターのカタログ化が行われるきっかけになったと思います。


その後DVDの普及により、キャラクター商品展開+DVD売上で制作費を賄うという新しいビジネスモデルが誕生し、UHFや衛星局でのアニメが乱発し始めます。そしてここで作られるアニメの多くは、安い制作費でキャラものを作り、何本かに一本のヒットを狙う形式でした。




この流れを振り返って言えるであろうことは、95年頃を境とする、萌えの発見によるキャラ重要度の増加と、そのキャラ達が暮らす世界感の重要度の更なる増加。そして、その需要を満たすキャラクター商品の消費の増加が一点。


オタク向け作品の増加により、オタクは能動的におもしろさを探す必要がなくなったのが一点。


萌えがメインストリームになることにより、「知識」に加え「いかに萌えているか」がオタクを量る指標になったのが一点。


これに、作品数の圧倒的増加というファクターが加わり、オタクの活動は、最も歴史ある「一つの作品を研究する」という楽しみ方から「多くの作品を軽く鑑賞し、それを元ネタにして遊び、キャラ、設定を消費する」という形に変わっていったのだと思います。


これが、冒頭の一つの解答ではないでしょうか?


現在のオタクは、いかに上手に多くの作品を消費し、それをどれだけ楽しむか、という点に特化しつつあるということです。そしてそれは、オタク関連商品をいかにうまく消費するかということでもあります。


皮肉なことは、もともと玩具会社の宣伝番組(究極的にはガンダムもそう)をいかに楽しむかという点からスタートしたオタクが、今またそのビジネスモデルに踊る消費者に帰ってきてしまった点でしょうか。


この点についてはまだいろいろ語りたいことがあるので、筆者は「消費者である」という点については否定的でないということだけを強調しつつ、いいかげん長くなったのでここいらで筆を置こうとおもいます。




なんかすんげー書いちゃいましたw 思いつきえを並べただけなんで、疑問、反論、共感等ありましたら、適当に書いてもらえるとうれしいす。




追記:
mixiの方でいくつか反応があったので補足説明。
一般的に「オタク」の指す意味の変化が生じたのは、一般人が自分のよく知らないアニメ作品にはまる人たちを区別するためにそう呼び始めたため、というみかたがあるとおもいます。今回はそれとはまた別のみかたを探してみたと同時に、その原因を探ってみたと考えてもらえれば嬉しいです。


それと、今回はオタクであるための最低条件を探るための考察だったので、結果的に創造的活動をしていらっしゃる方々を、消費者としていっぱひとからげにしてしまうことになりました。これは意図するところではないんで、ここで補足しておきます。